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■私の知ってる椎茸の歴史

一説によると、しいたけの原産地はニューギニア。その昔、しいたけの胞子は台風の風に乗り、太平洋を越えてはるばる日本に飛んできたのだとか。

 椎茸の名は椎の木に生えるキノコという意味。日本で食用として最初に名前が現れるのが室町時代の国語辞書「節用集」( 1450 年)で、当時から貴重な食物とされていたようでした。

 ところで宮崎県で一番しいたけを生産している地域に「諸塚村」という日向市から山手に上ること 1 時間程のいわゆる奥日向といわれる静かな山村があります。昔から林業が盛んで森林もすばらしく整備されております。その諸塚村の椎茸栽培の最も古い記録は、有馬藩時代の「国乗遺聞」に記載されたものといわれています。有馬氏の支配は元禄 4 年( 1692 年)まで続くので、少なくともこの時代以前には、すでに椎茸栽培は行われていたということになります。また寛文 4 年( 1664 年)に静岡の茸師が大分を訪れ、椎茸栽培を伝えたという記録もあり、諸塚地方へは大分経由で伝わったということも論じられることがあります。

 当時の栽培方法は、ナタ目栽培と呼ばれるもので、クヌギやシイなどのホダ木にナタで切り込みを入れて、山かげなどに置き、菌が自然に付着して椎茸が生えるのを待つというものでした。

 明治中期頃まで椎茸は自然に発生するものという考えが研究者の間でも支配的で、それから実は椎茸自体がもつ胞子の力であることが解明され栽培に生かされるようになったのは明治も終わる頃だったといわれています。うまく菌がつかないと、 2 年、 3 年待っても芽をふかないわけで、まさに神に祈るような栽培だったことが想像されますが、それでも比較的順調に生産量を増やして行った宮崎県は、椎茸の胞子をうまく集めるような地形や気象の条件を天から与えられていたということが言えるかもしれません。

 椎茸の栽培が画期的にかわったのは、昭和 18 年( 1943 年)に森喜作氏によって菌糸を培養した種駒を打ち込む方法があみだされてからになります。以後、椎茸の生産量と生産地域はどんどん全国に広がりをみせてゆきます。

 椎茸の国内消費もさることながら昭和 40 年代あたりまでは日本産乾椎茸の高品質は海外でも評価が高く、相当な量が台湾や香港へ輸出され、珍重されておりました。第 2 次大戦後一時は日本の重要な外貨獲得産品であったと聞いております。その当時所謂「どんこ」は輸出用としてとても金額が稼げる品柄でありましたし、多くのブローカー達の相場商品でもありました。

 ところが昭和 60 年代以降になりますと、中国産や韓国産のしいたけが日本に入って来るようになり、また、椎茸と言えば乾燥椎茸を示すものでしたが、生産設備や種菌の改良、低温輸送の発達などに伴い「生しいたけ」が流通するようになって、時代は大きく変わってきました。 しかし、椎茸と日本人の食生活は非常に結びつきが深く、乾椎茸の健康的栄養素や他の食材をひきたたせるダシや風味の特性は現在も多くの皆様に愛されつづけており、他方、菌食やスローフード、ロハスなどのより自然的な生き方を志向する人々の増加にともなってこの椎茸というキノコはあらたな活躍の場を得ているところであります。